損する事を厭わない覚悟が幸福な人生を約束する
社会とは生身の人間の集合体に過ぎない。金は単なる数字だが人間は生身でかけがえがない。本来損得勘定抜きで困った人を助けるのは当たり前の事。富士システムズは称賛したいし、自分も当たり前の様に社会貢献したい / “台湾爆発事故、ありった…” http://t.co/MXf0UxAOG7
— Xevra Lindich (@xev_ra) 2015, 7月 3
昨今の殺伐とした社会情勢を見ていると人々の発想が金に縛られ過ぎてしまっている悪影響が大きいと思う。何か起こると「経済的にどうか?」、誰かが何かやると「どうやっていくら儲けてるのか?」、いい男性が居たら「年収は幾らか?」、結婚する子供を産むという話になると「コスパはどうか?」何でも金と言う1次元の基準に落して評価する事ばかりだ。
もちろんお金を稼ぐ事は社会に価値を提供する事だからその尊さは尊重すべきではあるが、そればかりに拘る事に一体何の意味があるのか。
本来、人生というのは、生まれてから死ぬまで肉体と言う器に乗って喜怒哀楽に翻弄されながら情熱的に旅する物語。どれだけ心がワクワクしたか、それだけが大切な基準である。金は単なる道具の一つに過ぎない。
損得勘定を繰り返し、コスパを追い求めた人生の先に待っているのは心の熱的な死だ。どれだけ心がワクワクするかではなく、経済的評価だけで行動を選択して行った先には何もない。例え経済的に余裕ができたとしても人間としては死んでいる。
もちろん、生きていくための最低限の経済観念は要るとしても、金に縛られない、進んで損していく事も辞さない覚悟は人生に必要だ。損しても動じない心を持てない人に豊かな人生などあり得ないのだから。
まずは自分の心と対峙し、心の声に従って大きく損しよう。滅茶苦茶損しきった時、人間はバージョンアップし新たな道が見えるようになるのだ。
損しないように汲々している連中が決して見えない世界が広大に広がるのを見てみたくはないか。
さあ大きく損して高らかに笑おう。